正法寺について


本尊十一面観世音菩薩像
正法寺は神戸・長田神社の門前町である長田神社前地域より東の方向〔かわらやま〕とよばれる丘にあります。京都・南禅寺を本山とする臨済宗の寺院です。山号は開基家の屋号「瓦屋」を冠して瓦屋山(がおくざん)。これが転じて正法寺一帯は〔かわらやま〕とよばれています。
平成7年の神戸の震災では伽藍のすべてが大きく被災しましたが、正法寺有縁の方々の御尽力により平成9年に現在の伽藍を再建することが出来ました。受け継がれた伝統をまもり新たな歴史を刻んでまいります。

宗派 臨済宗南禅寺派
開山 毒湛匝三禅師
開基 谷口万治郎翁
本尊 十一面観世音菩薩像
脇侍 達磨大師像
鎮守 旗振大明神

正法寺ゆかりの禅僧

豊田毒湛老師(1840〜1917)臨済宗 南禅寺派管長・妙心寺派管長。
長廻正元老師(1889〜1952)祥福寺専門道場師家。正法寺大悲道場開単。
糸原圓應老師(1926〜2014)平林寺専門道場師家。

主な行事

春季彼岸会法要(3月)、盂蘭盆会施餓鬼法要(8月)、秋季彼岸会祠堂法要(9月)を厳修しております。

御供養

先祖供養、先亡供養、水子供養等の御供養を承っております。

御祈願

安産祈願、子育て祈願等の御祈願を承っております。

納骨

納骨または預骨の供養を承っております。

本堂

正法寺本堂にて通夜・葬儀法要を執り行っていただけます。(食事・仮眠可)

地蔵盆

安産・子育ての守護に霊験あらたかな正法寺の子安地蔵尊。8月23日の地蔵盆では郷土の人々のお参りで境内が賑わいます。子供たちにはお接待が振る舞われます。

瓦屋山史跡保存会

あやかるる 比叡の風に手をかざす里の恵みの 永遠にあれかし

当寺、開山の趣まことに長田の地ならではの感あり。一素封家の発心により建立されたと聞くに、その仏心の高まりに畏敬の念をいだき、ただ堂を凝視して黙すのみである。
この地は代々、素封家谷口家の瓦づくりの土を取り入れるところであり、近代においては米相場の変動を伝える旗振山としても知られた。大正の世、谷口家当主に谷口万治郎氏あり、新緑、屋敷をおおうて緑風さらにすがすがしき頃、万治郎氏が先祖を祀らんとしたその時、この地の方向に比叡のお山を夢見し、ひたすら当地の安らぎを願い、浄財あるを傾け堂宇伽藍を一心に建立したのである。
高き質の瓦を当地窯にて造りつゝ、名主として人望を集めた人の一生の成果として、その仏心まことにゆかしく、ここに縁起を記して万治郎翁の賛としたい。

平成四年初夏 瓦屋山史跡保存会

正法寺について

旗振り通信ゆかりの地 かわらやま(長田の旗振り山)

正法寺の境内の裏手の丘〔かわらやま〕には、かつて正法寺開基である谷口万治郎翁によって建立された楼閣・水晶閣があり、大正時代にかけて大阪・堂島の米相場の中継所(旗振り山)として「旗振り通信」が行われたと伝わっています。
通信は主に兵庫区水木通にあった神戸米穀株式取引所からの相場通信を行ったようです。
正法寺境内には当時水晶閣のそばにあった「瓦屋山」と彫られた旗の掲揚塔の基部が移され残っています。水晶閣の位置を表すシンボルであったと考えられています。 

旗振り場「水晶閣」の位置


昭和28年日本特殊地図協会発行の地図
水晶閣のあった〔かわらやま〕は現在住宅地に変わっており、当時の面影を見いだすことはできない。
明治43年測図の2万分の1地形図「神戸」に水晶閣の記載があり、大正12年測図の1万分の1地形図「神戸西部」には水晶閣と正法寺の記載がある。

参照:
柴田昭彦「旗振り山と瓦屋山正法寺 - インターネット検索の活用-」
『歴史と神戸』243号(平成16年・神戸史学会)21頁。

正法寺と旗振り通信に関する資料

① 文献

② 地図など

③ サイト

  1. 旗振り通信研究者 柴田昭彦氏のサイト「ものがたり通信」
  2. 長田のまち再発見「わがまち自慢トーク瓦版 宮川地区」

振り山と正法寺


正法寺境内にある旗の掲揚塔の基部
瓦屋山史跡保存会 神戸市長田区片山町にある禅刹、正法寺の境内に、「瓦屋山/大正元年十月開始/開山者谷口万治郎」と彫られた、旗の掲揚塔の基部が残っている。この谷口万治郎という人物は、正法寺の開基にあたり、「瓦屋山」とは正法寺の山号である。ちなみに山号の「瓦屋山」は、地元の素封家であった谷口家の屋号の「瓦屋」に由来すると伝わっている。

この掲揚塔は、実は戦後になって、正法寺の周辺の宅地開発にともない、境内に移されてきたものである。それ以前は、正法寺の裏の少し見晴らしのよい丘〔かわらやま〕に建てられていた。そのすぐ側には「水晶閣」と呼ばれる2階建ての楼閣があった。この楼閣も万治郎氏によるもので、「水晶」という文字は、万治郎氏の幼くして亡くした二女の戒名からとられたといわれている。

当時、万治郎氏はこの水晶閣の地を、米相場のいわゆる「旗振り通信」の中継所に位置づけ、自身も相場取引に何らかの形で関わっていたらしい。

実は、水晶閣への「旗振り通信」は、ごく最近まで兵庫区の十郎池跡地(現在の下祇園町)に株式取引所があったことから、株式取引所からの通信を、次の中継所である水晶閣で受けていたと思われていた。

しかし、旗振り山の研究者である柴田昭彦氏の調査で、水晶閣と株式取引所との「旗振り通信」の可能性は低いことが分かった。

柴田氏によれば、水晶閣(標高は、約50メートル)と、株式取引所(標高は、約25メートル)の間に、両地点を遮るかたちで会下山(当時の標高、86メートル)が位置しているため、旗振り通信が不可能になる。会下山に中継所があったことも考えられるがそのような記録は残されていない。また「旗振り通信」のほとんどが株式取引ではなく、米相場の通信として用いられていた事実がある。

そこで考えられるのが、大正元年当時、兵庫区の水木通り3丁目にあった神戸米穀株式取引所からの通信である。明治15年には、神戸中継所(兵庫新川の米商会所)は現在の神戸中央市場付近にあったが、明治39年には水木通3丁目に神戸米穀株式取引所ができ、大正時代まで継続し、大正8年には神戸取引所に改組された。

神戸米穀株式取引所からの通信を水晶閣で受け、次の中継所へ送ったことが事実のようである。

江戸時代末から明治時代にかけて、大阪・堂島の米市場での相場が、毎日旗を振って暗号でリレー形式に伝えられた。大阪堂島で振られた旗信号は 「尼崎辰巳橋─武庫川堤─金鳥山─諏訪山─高取山─須磨旗振山─明石金ヶ崎山─高砂─姫路─-龍野─赤穂─天狗山─熊山─旗振台古墳─岡山─広島─下関─若津(福岡県大川市)」と伝達された。このルートの支線として水晶閣が含まれたケースも幾度となくあったことであろう。

ルートのそれぞれの中継地を旗振り場、旗振り山と呼び、須磨の山だけが今にその名をとどめた。 須磨の旗振山の山頂の旗振茶屋の横に、現在設置されている説明板には、「こゝ旗振山は、その名の通り昔、旗振通信をしていた場所である。江戸時代から大正初期電信が普及されるまで、こゝで畳一畳位の旗を振り、大阪堂島の米相場(米の値段)を加古川、岡山に伝達していた中継点であった事から『旗振山』の名が残っている。創業昭和六年三月 旗振茶屋」とある。

「一手千両の花が咲く」といわれた堂島の米取引所は、享保15年の幕府公認以来、食管法により米が統制になった昭和14年までつづく。当時は諸藩も武士個人も米問屋などを通じて換金しなければ、必要な物資をまかなえなかった。堂島で定まったレートはあらゆる物価の基準になった。こうした背景から、諸国の米業者や商人たちが、米相場を一刻も早く知りたがるのは当然で、その要求から「旗振り通信」は生まれた。速さでは飛脚の比にならず大阪〜広島間をわずか40分程で伝えたという。

現在では、水晶閣も取り壊され、水木通の米取引所は大開通の拡張にともない姿を消している。これらの中継地の建物(特に米取引所)を知る人々も少なく、米相場の旗振り通信に関わった人々となると、ほとんどおられない。現代社会の情報伝達網の発展からみれば、ほんの1世紀も満たないほど時代をさかのぼった社会に「旗振り通信」が行われていたとは信じがたいが、実は現代の電信・電話の遠距離通信と「旗振り通信」には大きな相関点がある。それは、「旗振り通信」の通り道が、NTTの長距離電話に利用されているマイクロウエーブ(極超短波)の代表的なルートとよく似ていることにある点である。マイクロは光と同様に直進する性質があり、相互に見通しのきく場所にアンテナを立てて送っていくので、「旗振り通信」と原理は同じで、古人が選んだのとよく似たコースに落ち着いたという訳である。

その昔、正法寺のすぐ裏山を経由して日に日に米相場の情報が「旗振り通信」によって西日本を目指して飛んでいた。その後ずいぶんと様子が変わり、現在は寺の境内に旗の掲揚塔の基部だけが残るのみとなった。しかし水晶閣のあった地はかつての「旗振り山(場)」であり、情報(の通信)と深く関わる地にあることは確かである。

アクセス

正法寺
正法寺
所在地 兵庫県神戸市長田区片山町2丁目2─4
電 話(078)642─2741
最寄駅
・神戸市営地下鉄「長田(長田神社前)駅」
・神戸高速鉄道「高速長田」駅
・神戸電鉄「長田」駅
・神戸市営バス「長田神社前」停留所
▲ ページトップへもどる
Copyright©正法寺・瓦屋山史跡保存会 All rights recerved